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認定者インタビュー「(株)ふらの農産公社」

2018春認定 (株)ふらの農産公社インタビュー

2018年10月25日 [お知らせ] [Made in Furano 事務局]

「ふらのチーズ」の歴史は「富良野の畜産業の歴史」そのもの。

ふらの農産公社は「Made in Furano」の先駆け的な存在だけでなく、現在の富良野の産業基盤を築いた存在と言っても過言ではありません。

本格的なスタートは昭和58年(1983年)、富良野市と富良野農協(現JAふらの)の共同事業として、第三セクター「ふらの農産公社」を設立。オープンから35年経ち、今では乳製品の製造のほか「富良野チーズ工房」や「ふらのアイスミルク工房」なども増設しました。特に人気の「ふらのピッツァ工房」は観光客だけでなく地元でも多くのファンを獲得。富良野グルメを語る上で欠かせない存在になりました。

次々に新商品やイベントを企画し、右肩上がりで成長を続けているように見えますが、その設立背景には笑い話にできない様々な困難がありました。根底には「富良野の酪農家を支える」という大きな使命があり、創業当時の思いは現在まで受け継がれています。

好景気と技術革新に翻弄された酪農家の悲鳴

富良野の酪農業に変化の兆しがみられたのは、昭和40年代の「いざなぎ景気」と呼ばれた高度経済成長期。周辺設備や飼料の技術が飛躍的に革新し、乳牛1頭あたりの搾乳量が増加しました。

ところが、喜んでいたのも束の間、厳しい現実が酪農家を襲う事になります。大量に搾乳をしたとしても、生乳は適正な処理をしないとすぐに傷んでしまうため在庫として保管することができません。その一方で消費量にも限界があるため、徐々に生産過剰の状態に陥っていきました。

当時は現在のような6次産業や直販などのシステムも無く、搾乳量の調整にも限界がありました。乳牛は毎日搾乳をしないと乳房炎になってしまい、病気になった牛は廃棄処分されてしまうため、作業を休むわけにはいきません。

 

その結果、価格を維持するために搾乳直後の生乳に食紅を混ぜて廃棄処分をするという異常事態が発生。出荷の見込みがつかない牛乳を生産し続けることは酪農家に取って死活問題であり、中には限界を感じて離農の選択を検討する人もいました。

昭和50年代に入ると牛乳の過剰生産はさらに深刻になり、富良野だけでなく全国的な社会現象になっていきます。その時に「行政として酪農家の経営安定のために何ができるか?」を連日検討していた富良野市はひとつの決断をしました。それが「廃棄される牛乳を使ってチーズを作る」事でした。

試行錯誤の中から生まれた独自のチーズ

しかし、チーズの生産設備を揃えるには莫大な費用だけでなく、専門的な知識を有した職人が欠かせません。さらに牛乳は衛生管理が非常に難しく、安全基準を守るため国が定めた独自の流通ルートに沿って取引をする規則もありました。そのため「廃棄する牛乳を加工品にしよう」と思いついても、実行に移せない行政は数多く、特に「地元産の牛乳だけを使ったチーズを作る」という計画は簡単なものではありませんでした。

ところが、当時の市職員には酪農学園大学出身者がいたため、この計画は一気に現実味を帯びます。彼を筆頭に母校である酪農学園大学と研究チームを発足させ、牧場にほど近い山の中腹に研究施設を建設。ホクレンから「富良野産100%の生乳」を仕入れる特別な流通ルートを作る交渉にも成功し、着実に計画を進めていきます(当時としては異例な流通ルート)

こうして「ふらのチーズ」は酪農家と富良野市の未来を担う一大プロジェクトとしてスタート。目標は「本州の業者に出せない味」を作り出す事であり、他の地域と差別化を図るための大きな課題でした。

 本格的なチーズ生産を目指すため、原料となる牛乳の加熱殺菌も「ノンホモ製法」(低温殺菌・非加圧均質化)を採用。そのため、ふらの牛乳は本来の牛乳の味と栄養価が残り「季節で風味が変わる」と言われ、夏はサッパリ、冬は脂肪分を多く含んだ濃厚な牛乳になります。 

大手企業のように年間を通して同じ品質を維持する事は大事な側面も否定できません。しかし、農産公社は「牛乳本来の味」を守る事を優先する決断をします。そこには富良野の肥沃な大地に育まれた乳牛と畜産農家の高い技術力から生まれる絶対的な自信がありました。

この頃は、時を同じくして「ふらのワインプロジェクト」が本格的に軌道に乗り始めた時期。もともとワインとチーズは相性が良く、この二つを組み合わせる事は自然の流れだったと言えるでしょう。

社員の発案から試行錯誤が始まり、ついに幻想的な大理石模様を特徴とした「ワインチェダー」の開発に成功します。当時、国内でワイン入りチーズを商品化した前例は無く、まさに「本州の業者に出せない味」であり、富良野にしかない唯一無二のチーズが誕生した瞬間でした。

これを皮切りに、イカスミ入りチーズの「セピア」(黒は肥沃な大地、白カビは富良野の雪を表現)や名産品のたまねぎを練りこんだチーズの商品化を進めていきます。また、市内でもふらのチーズを使ったラーメンや寿司を提供する飲食店が登場。ふらの牛乳は、名物の「オムカレー」に欠かせない存在になり、観光客だけでなく地元の人からも支持されるようになっていきます。

変わらない思いと環境に合わせて変えていく手法

※写真は今回のインタビューを受けてくださった七宮さん

現在、5種のチーズとふらの牛乳をMade in Furanoの認定商品として展開していますが、それらの商品の流通が大きな課題になっていると言います。乳製品という非常にデリケートな特性と、ほとんどが手作業で行なっている生産体制のため大量生産ができず、多くは富良野市内への販売に限定されてしまいます。市外へ流通できても道内販売に限られてしまい、道外への流通は全くと言っていいほどありません。

生産者側の気持ちとしては味と品質を保つことを前提に、もっと多くの人に「ふらのの魅力を味わってもらいたい」というのが本音。幸いな事に、現在では物流技術も発展し、全国への通販も可能になりました。また、インターネットを使った広報活動やふるさと納税の返礼品にもなり、知名度アップと流通ルートを広げるチャンスを模索しています。

一般的に第三セクター経営は赤字に転落しやすい…と言われていますが、ふらの農産公社に限っては創業以来赤字を出した事はありません。そこには社員一人一人が「職人である」という強い意識があり、創業以来受け継がれている使命感が支えになっているからだと言えます。

「Made in Furano」の先駆け的な存在として、また富良野の酪農家を支える重大な役目を担うために、ふらの農産公社の挑戦は続きます。